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インタビューNo.8 みると 磯部さんインタビュー

中村 

   こんばんは。早速ですが、磯部さん博滇会に来たのはいつ頃ですか?

磯部

   平成28年28歳のときです。長女が当時3歳で、自転車で子どもを載せたまま滑って倒れてしまって、危ないと思って車の免許を取りに行って、行動範囲が拡がったんですよね。それでみるとに決めました。

中村

   その前はどこにいたんですか?

磯部

   最初は准看の看護学生のときには、学生やりながら戸田中央産院の産科と老人病棟で働いてました。その後は上尾中央病院の透析、精神科、目黒区の病院。私、どこも長くは続かなくて……。それでみるととかいくつか面接を受けたんですけど、当時のみるとの施設長がとても感じがよくて、みるとに決めました。

中村

   そうだったんですね。

磯部

   でも当時、みるとにいた看護師さんたち怖くて……(笑)。泣いて更衣室から出れなかったりもしたんですよ!私、泣いたりしないタイプなんですけど。

中村

   たしかに今では想像できないですね。

磯部

   看護師としても自信もなかったですしね。准看護師で引け目もあった、他の看護師さんは看護大学とか出てたり、自分に知識がなかったり……。自分は目黒病院でそれなりに働けていたと思っていたけど、正看護師との違いを感じたり。それで「もう辞めます」って言ったら院長がちょっとだけ給料を上げてくれて。

中村

    当時ならではですね。

磯部

   でもお給料よりも、介護職の若い子たちがよく食事とかに誘ってくれたり、いろんな場面で声も掛けてもらえて仕事でたくさん助けてもらったので頑張ろうと思えました。
   今まだここにいるのは当時の介護職の人たちのおかげです。当時、うちに10人くらい集まって飲んだり、遊んだり。子供を保育園に連れて行けないときは職場に連れてきて当時の管理者や職員たちが面倒みたりしてくれていて。ありえないくらい娘も可愛がってもらってました。今も辞めた人たちと繋がっていて8人くらいでみると同窓会してます。

中村

   アットホームだったんですね。今のみるともそう見えますが。

磯部

   でもちょっと当時の現場は仲良くなりすぎてナアナアになってしまい管理者はそれではまずいとなって、ちょっと対応が変わったり。そうこうしているうちに、苦手だった看護師さんたちは辞めていきましたね。

中村

   その後はどんな感じだったんですか?

磯部

   みるとに入って4年で長男の産休に入ったので、そのときはぎりぎりまで働いてましたね。それが病気で生まれて大変でした。

中村

   どんなご病気でしたっけ?

磯部

   左心低形成症候群という病気です。心臓の左心室と大動脈が小さく(低形成)ほとんど機能していない病気で重篤な心疾患です。先生これ今日撮った胸のレントゲンです。(胸部レントゲン:小さなコイルが胸部に50個ほど写っている)
    なんらかの治療無しでは新生児を生き延びれない病気で10歳まで生きれないかもと言われていました。全部で4回の手術が必要で、最後の手術まで辿り着けない子もいると。

中村

   大変でしたね。

磯部

   生まれたときも片腕骨折してて、多分先生が引っ張りすぎたんだと思うんですけど(笑)。
   生まれて2日目でチアノーゼが出てて、酸素飽和度もずっとアラーム鳴ってるし毎日大丈夫かなと心配してたら生後6日目でショック状態になり国際医療センターに救急搬送されて、明日オペです!って言われて。そこで肺動脈絞扼術をやって、ステントを入れましたね。手術終わったあと、父親に車で迎えに来てもらったんですけど、車で大泣きしました。子どものことで大泣きしたのはこのときが最初で最後。そこからは毎月1回のカテーテル検査(付き添い入院)が続きましたね。
   その後、震災直後は節電で手術がやれるかどうかとかあったんですけど、2回目のグレン手術とノーウッド手術は生後6カ月で同時にやりました。退院後は自宅で酸素をやって。いっぱい決まり事があって、軽い風邪(感染症)も命取りになると言われ、公園禁止、水分もかなり制限ありお腹がすいてよく泣いてたけど、泣くの禁止(心臓に負担かかるので)ひたすら抱っこか、安定剤の座薬をすぐ入れる、ずっと酸素飽和度は65%とかで。

中村

   65!?

磯部

   お医者さんには、「この子は生まれた時から富士山のてっぺんにいるようなものだから本人は苦しいと思っていない」って言われました(笑)。私も気になっちゃうんで、酸素のモニターは買わなかったですね。それで2歳半のときにやっと最後のフォンタン手術(16時間)をして、酸素飽和度も98%まで上がりました。今日は86%だったかな。今は酸素はしていなくて少しづつ下がってきていますが想定内らしいです。このフォンタン手術で一区切りでした。彼は強運です。国際医療センターに搬送しようと決めてくれた先生に会えたのも奇跡だし、それで手術までの6日間生きていたのも奇跡だし。
   今はもう13歳になりました。当時一緒の病室だったり、一緒に外来に通院していた同じ病気の子とかはほとんど亡くなりました。なので、うちの子は他の同じ病気の子たちの希望だ!と主治医は言ってくれます。

中村

   そうですよね。本人は病気のこととか、どんな感じで受け止めているんですか?

磯部

   本人はいつもニコニコしてますよ。発達も遅いから親離れもしてなくて支援級です。主治医の先生は本人はもうわかるの年なのでと、話をするときも言葉を選んで話していますね。病気のことはざっくりわかっています。毎日朝夜の薬を飲まないと生きれないこと、運動ができないこと。時々病気を都合よく使うんですよ。

中村

   というと?

磯部

   学校が疲れたり、めんどくさい事をやらされそうになると病気を理由に休んだり。週の半分くらいはそれでも行けているかな。休んで家で携帯ゲームしてます。主治医からは本人がしんどいと言ったときは休ませてと言われてますが、確かに朝はしんどそうな事が増えました。冬は特にフリーズして動けないです。

中村

   彼は将来の夢とか話したりするんですか?

磯部

   小学校高学年までサッカー選手!一度もしたことないのに(笑)。アスピリンをのんでるので、ヘディング禁止だし運動が禁止なので。
   習い事もいろいろ勧めたんですけど、これといったものはなかったですね。勉強も運動も苦手なので、最近は英語とパソコンをやらせようと思ってます。とにかく食べるのが好きで。こんなに太ってる心臓病いないですよ。笑えないですね。

中村

   磯部さん、いつも帰りも遅いですけど、食事は誰が作ってるんですか?

磯部

   21歳の娘です。週の半分、それ以上かな?作ってくれてますね。私は休みの時は作ったり最近は作り置きしています。すきやにも結構お世話になっています。

中村

   娘さんは何をされているんですか?

磯部

   スーパーの正社員で鮮魚担当です。朝の8時半から5時まで魚さばいて刺身を切ったりしてますよ。

中村

   頼もしいですね。

磯部

   娘も職場のおばさま達に可愛がってもらって仲よくて、私もお誘いいただいて飲みにいったりしてます。

中村

   家は安心ですね。

磯部

   そうですね。パートナーも家事と育児は協力してくれるので助かっています。長男が10歳を超えて、ほんとに安心しました。10歳は自分の中での一つの目安でした。七五三の前に亡くなる子も多いので、ほっとしましたね。心の支えは半崎美子さんです。

中村

   !

磯部

   前にル・サンク湯澤に来てもらって歌っていただいたときは、子供が風邪でいけなかったんですけど。そのあと、すごい好きになって、今は北海道までコンサートに行ったりもしてます。半崎さんに会っていなかったら、多分管理者も辞めてると思います。人への感謝、思いやりを常にもっていないとと思います。みんなの支えがあって自分があると、教えてもらいました。
   「地球へ」(2022)という曲を知ってますか? ぜひ、聞いてください。みるとでただ看護師として働いていたときは、あまり利用者さんのこととか考えられてなくて、レクでも利用者さんのためにとか、口では家族のために寄り添ってとか言ってるけど、楽しくやれていればいいと思ってました。
   でも変わりましたね。
   子どもの病気で、ICUの看護師さんたちにたくさん励ましてもらいました。ICUで面会のときに泣かずにいれたのは看護師さんたちのおかげです。
   当時、次男が頭のケガをして硬膜下血腫になって、児童相談所に通報されて、手術後に乳児院に連れていかれたんです。それで手術後面会は許可されたんですけど、入院先の看護師さんたちには虐待する母親と思われて、完全に無視され挨拶もしてもらえませんでした。そのとき、現場の看護師さんで2人だけは私に声をかけてくれたんです。「子どもの反応みれば、お母さんが虐待なんかしてないっててわかるよ」って。その看護師さんたちに会ってなければ、みるとに復帰もしてなかったと思います。結局硬膜下血腫の原因は別でわかったんですけど。
   次男が帰ってきた後、ちゃんと家族を視野に入れ、家族にも寄り添える看護がしたいなと思って、みるとに戻ってきました。みるとは昔からそういうところですし。そこまでやるの?とよくスタッフにも言われます。利用者さんを受け入れる姿勢が院長や昔の管理者の姿勢が好きでしたね。在宅で利用者さんをみたいというご家族の思いは大事にしたいと思っています。子どもを通しての経験が無駄にはなっていないですね。

中村

   なるほど。

磯部

   話は戻りますけど、長男が10歳になって落ち着いたので、そこからX(旧ツイッター)を始めたんです。#左心低形成症候群 私のフォロワーさんの中でうちの子より長く生きている方は数人です。当時入ってくる情報は亡くなる情報ばっかりで嫌でした。欲しかったのは元気にやっているという情報。なので、自分は子どもが元気でいれているので発信しようと思って。同じ病気の人たちのXにも返事するようにしています。これから手術ですという人とかに。なので、今ツイッターは病気のつながり、半崎美子さんつながり、あと猫!保護猫を飼ってるんです。でも病気で繋がっている人たちへの声かけも難しいですね。絶対大丈夫とも言えない。年賀状とかが来なくなると、もしかして亡くなったのかなと思ったり。ツイッターやインスタ、年賀状はお互いの安否確認になってます。

中村

   それにしても、磯部さんはいろんな意味で元気だし、アクティブですよね。

磯部

   今が一番元気かもしれない(笑)。半崎美子さんに会うまでは、管理者になっても、これはこうあるべきと思ってたし、もっとワンマンだったと思います。頑固な上に、人目を気にするAB型です!
   管理者の仕事はやりたくて引き受けたわけではないですが一生懸命やっているつもりです。半崎美子さんの歌でいろいろ学びましたよ。人の話、意見は聞くべきだし、自分の言っていることが正しいわけでもない。私も今までの管理者のやり方とかで嫌だなと思っていたことは覚えてますので、管理者としてはブレないようにしないとと思っています。利用者さん、職員さんを大事にできる管理者になりたいなと。自分も相当大事にしてもらいました。昔の管理者とかに、子供の事で休みが多くても怒られたことがない。院長のおかげでクビにもならずにここにいられる。
   先生も知っていると思いますけど、管理者の打診があったとき、本当は最後のチャンスと思って正看護師の学校に行く予定でお金も払ってたんですよ! そのとき院長に管理者はどうだと言われて、あ、だれも引き受ける人がいなんだろうなと思って。でもなりたいと思ってなれるポジションでもないですよね。今までお世話になったので、それを返す機会かなと思って引き受けました。
   環境も変わってふと半崎さんの歌を思い出しました。

中村

   半崎さんの歌ですか?

磯部

   歌です! 管理者になったときに、美菜先生が半崎さんを知っていて、その繋がりでONLINEライブを観て、即ファンクラブに入りました。「サクラ〜卒業できなかった君へ〜」とかは、息子の周りで亡くなった子とリンクしたりして。それが曲を聴いて涙が出るという体験をしたんです。所沢のホールで一番前で聴いて。歌詞に心を打たれ半崎さんのような気持ちで仕事をしたいと思いました。だから出勤前は車で半崎さんのCDを聞いています。

中村

   今はみるとで働いていてどうですか?

磯部

   そうですね、みるとじゃないとダメ、みるとが生活の場という人たち、それは利用者さんも職員もそうですが、そういう人たちを支えれる場でありたいと思います。

中村

   半崎さんの歌に支えられて、こんなに元気に働けてるんですね。

磯部

   いろんなことを経験してきて、泣いて解決するなら泣きますけど(笑)、たいていのことはそこまで悩まないです。悩んでもしょうがないじゃないですか。子どもに話しかけられて返事も出来ないくらいなら、悩まない方がいい。子供が何歳まで生きられるか心配で悩むお母さんもたくさんいます。でも主治医と子供の生命力に頼るしかないじゃないですか。子どもが笑って毎日楽しいって気持ちだけで生きててくれたらそれでいいです。
   私の育て方を甘やかしていると思っている人もいると思います。ずっと一緒にい過ぎてもあれこれマイナスな方に考えちゃいそうになるんです。夜中には今でも何度も息してるか、爪が紫じゃないかとか気になって、大変なこと、余計なことを考えるので、私には適度な距離が必要なんです。娘には負担をかけていると思っています。お母さんは“みると”が好きなんでしょ!っていつも言われます。みるとはお母さんの生活の一部と理解してくれています。私には息抜きに半崎美子さんが必要です。コンサートがあれば大阪でも博多でも行きます!娘も息子たちも行ってきな!って。そうすると私の機嫌がいいのも知ってるんです。

中村

   娘さんの息抜きは?

磯部

   歌い手のめいちゃん!私も一緒にライブに行ってます。半崎さんのライブと違って、ペンライトがんがん振る感じです。よくお母さんと仲良いねと、娘の周りからは言われます。

中村

   次男さんは元気ですか?

磯部

   次男はですね、反抗期です。反抗期なんだけど、お母さん休みだと嬉しいって言うんですよ(笑)。なので最近、はやく帰ってます!半崎さんのイベントにも一緒についてくるので、名古屋にも二人で弾丸旅行してきました。
   家に着いて疲れて車で寝ちゃうことがあります。いつも3つくらいのことを考えてて脳が疲れてます(笑)。頭の中の処理が苦手なので。今日1日平和に終わったという安心感で車で15分寝てから家に入るんです。

中村

   最後に、管理者になっていかがですか?

磯部

   管理者になって3年半になりますかね。運営について考えるようになった。やっと今ちゃんと向き合ってる感じです(笑)。どう利用者様を増やすか。本当は3年前からやらないといけなかったんですけどね(笑)。利用者さまにとって最後の時間、場所になる可能性がありますし、人の命は明日さえわかりません。なので後悔がないように利用者さまやご家族に安心して楽しんいただけるような施設でありたいです。またみるとの利用者さまを受け入れる職員は相当な神経を使っています。それだけ目が離せない方が多いのです。でもどの職員も笑顔で丁寧に対応してくれていて、利用者様の安全を考えています。みんなプロだなといつも感心します。60名の職員(介護職、看護職、相談員、OT、マッサージ、ドライバー、厨房、事務、音楽、書道、お掃除)全ての職員のおかげで私も管理者を続けさせていただけています。本当にみるとの職員には感謝でいっぱいです。(ふだんなかなか言えないので(笑))

中村

   インタビュー、お疲れさまでした。

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