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<雨降って地固まる>

 振り返るとあっという間に、雨水の侯が去っていく。

 七十二侯では「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)、「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」、「草木萠動(そうもくめばえいずる)」と。雨水という名の如く、生ぬるい風は湿気を帯びて、いよいよ土地全体が目を覚ますような気配がする。そういえば先日、今季初めてカエルの鳴き声を聞いた。さいたま市西区は田んぼが多く、夏の夜などはカエルやオケラが元気に鳴いている。住んでいた頃は気付かなかったが、離れてみて初めてあれは安らぎのBGMだったと分かった。

 突然だが、今年はHipHopが誕生してちょうど50年目にあたる。

 HipHopは、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市にある、ブロンクスという地区で1973年に生まれた。Netflixのヒップホップ・エボリューションという番組によると、当時ダンスといえば、煌びやかなディスコで皆豪華さを競い合い、高いスーツやシルクのドレスで着飾って出かけていたが、HipHopが誕生したブロンクスの住人(多くは黒人だった)は貧困にあえぎ、一年で10000件以上の火災が発生し町は崩壊、失業者が溢れ、犯罪も横行していた。そこでKool Herk(クールハーク)というDJが、ラジオやディスコではまずかからないような尖ったソウルミュージックを流すパーティを企画し、アパートの一室で始めた。彼はただ音楽を流すだけでなく、レコードプレイヤーを2機用意し、曲の間奏(ブレイク)部分のみを流し、継ぎ目なく次の曲へ切り替えた。間奏の拍子(ブレイクビート)に合わせ、ジェームスブラウンのダンスを真似てダンスをする客達は、そのうち地区ごとでチームを組んでそれぞれ技術を競うようになり、それがブレイクダンスの起源となった。また、Kool Herkのパーティには会場を盛り上げる役を担ったCoke La Rock(コーク・ラ・ロック)という友人がおり、彼はマイクを片手に仲間を紹介したり、言葉遊びで茶化したりするうち、マイクパフォーマンス自体がリズムを帯びて、MC(ラップ)の始まりとなった。

 その後、当時ブロンクスの最大ギャング、ブラックスペードのリーダーだったAfrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)がこれら地元の音楽、ダンス、MCなどの新しい文化をHipHopと命名し、ギャング達が非暴力化し平和に活動するための芸術的な受け皿としてZulu Nation(ズールーネイション)というヒップホップカルチャーの組織を立ち上げた。(※Zulu Nationは多くの音楽家が所属しており、設立以降その哲学や活動でHipHopの進化発展に大きく寄与することになるが、肝心の設立者であったAfrika Bambaataaは2016年5月に少年に対する性的虐待の告発を受け、辞任している。)

 貧困地区で生まれたHipHopは、レコードをつぎはぎしたり、歌ではなく喋るようにMCしたりしたこと、それに加えてミュージシャンの中にギャングや犯罪者(ともに、元・または現役)が多くおり、リアルな表現として放送できないような汚い言葉(スラング)を多用し、実際の違法行為についてラップするなどと発展していったこともあり、他の音楽のジャンルとは同等には扱われない時期が非常に長くあった。私が中学生頃(1990年代半ば頃)から、日本ではHipHopが流行っていたと思うが、当時日本で流れていたアメリカの報道番組を見ていても、ラッパー同士が抗争のようなもので殺されたり、ヒップホップのアルバムを白人が道で踏みつけたり、風紀を乱す対象として政治家等から非難されていたのを度々見た。

 その後、HipHopはPharrell Williams(ファレル・ウィリアムス-ラッパー、ソングライター、プロデューサー、ファッションデザイナー)の手腕により、ポップミュージックに乗り入れることに成功し、一気に好みや人種のルーツなどの垣根を越えたメジャーな音楽として受け入れられた。近年では、2018年にクラシックやジャズ以外の部門で初めてKendrick Lamar(ケンドリック・ラマー-ラッパー、ソングライター、プロデューサー)がピューリッツァー賞(音楽部門)を受賞した(同賞の委員会は「現代を生きるアフリカ系アメリカ人の複雑な人生を捉え、土地や文化に根付く本物の言葉やリズムのダイナミズムを統合した高水準な楽曲を収めた名作」と評価した。_Wikipediaより)。現在、初期から活躍し成功を収めたHipHopアーティストは50代、60代になり、実業家として大成功したり、またその資産を自分が生まれ育った地域に寄付して貧困の解消に尽力したり、若手の音楽家の育成に還元したりと、自分達が産まれ出てきた隔絶されたコミュニティに光を灯す存在になっている。

 日本では、まだHipHopに馴染みのない人も多いのではないかと思う。また、HipHopは清濁併呑というよりむしろ抑圧された力を発散させる手段であることをルーツにしているため、濁ったものを表現する音楽だ。怒り、悲しみ、絶望、間違ったこと、後悔などの陰性感情を芸術という形でなるべくリアルに、そしてとめどなく世界に紹介するのがHipHopなのだ。それは当然臭いものなので、世界は蓋をして、否定したかったのだろう。そういった、犯罪者、間違ったことをする人、絶望している人の心の奥にある本音の言葉を聞く準備ができている人は多くはないだろう。しかし、本音の言葉というのは不思議と力があり、歪んだ視点にもハッとさせられる、痛々しい説得力があるものだ。彼ら表現者にもしHipHopがなかったら、そしてもし世界にHipHopがなかったら、もしかしたら今日の世界は今よりまだちょっと、臭いものの蓋を開けて匂いを嗅ぐ度胸が足りていない、かもしれない。

 Kool Herkからこんな遠く離れた場所と境遇にいる、私の心にも生まれる大小の疑念、絶望、怒り、悔しさ、悲しみ・・・ちっぽけな私の心にも浮かぶそんな気持ちにも寄り添ってくれたHipHop 50歳、心からおめでとうございます。

理事 湯澤美菜

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