中村
こんばんは。今回はヘルパーステーションで働いている白石さんです。職員の広報誌のタイトル「エスコルタ」も白石さんの案でしたね。白石さんとは何度か飲み会でもご一緒させていただいてますが、今日は楽しいインタビューになるかと期待しています。早速ですが、白石さんはもともとご出身はどこでしたっけ?
白石
生まれは東京ですね。父の仕事の関係で、ドイツやメキシコでも生活してました。日本では横浜での生活が長かったですね。結婚してからは、アメリカ、カナダでも生活して、アメリカで妊娠、カナダで出産もしました。
中村
すごいですね。
白石
海外で出産したら楽しいかなと思って。
中村
白石さんらしいですね。
白石
先進国ですから安心でしたね。
中村
白石さんは元々は何をされていた方なんですか?
白石
大学は外国語学部イスパニア学科を出ました。私クリスチャンでカトリックなんですけど、大学卒業後に聖母病院に外人病棟というのがあって、その当時院長先生はシスターメアリーで、その方の元で働いていました。学生の時もここでボランティアをしていて、その延長で就職したんです。聖母病院はマリアの宣教者フランシスコ会が経営してるんですね。なので病院の建物の隣には教会、修道院もあります。仕事の合間にお祈りできるところもあるんです。もう40年も前なので今はどうなっているかわかりませんが。癌などの末期の方のお世話が仕事でした。働いたのは1年ちょっとでしたが、多くの方の末期の臨終に立ち会うことになりましたね。キュブラーロスやアルフォンスデーケン神父様の本でいろいろ勉強しました。
中村
そのお二人は、死の臨床の分野では有名ですね。私も勉強しました。
白石
弱い方に寄り添うことが仕事でした。今のヘルパーの仕事と似ているところがありますね。
中村
主にどんなことをされていたんですか?
白石
外国人も多く、英語などを使っての主に身の回りのお世話ですね。お食事のお世話や花瓶の水を替えたり、お着替えをお手伝いしたり、お話を聴いたり...いわゆる傾聴ですね。お辛い胸の内をたくさん聴かせていただきました。そこで1年ちょっと働いたころに、夫と結婚しまして、カリフォルニアに行きました。夫は土木工学の大学院を出てから、就職し、社内留学で勉強するためにバークレーに行き、さらにカナダの研究所(サスカチュワン州サスカトゥーン)にもついて行きました。アメリカではホスピスでボランティアをしました。当時は学生の妻だったので、働くことはできなかったので、まずはYWCAに行きました。そしたらボランティアの一覧を渡されて、どれをやりたい?って。それで私は訪問ホスピスともう一つを選びました。
中村
訪問のホスピスがあるんですね。アメリカは進んでますよね。
白石
そうなんですよ。研修もみっちり受けました。他に選んだボランティアですが、当時、エルサルバドルの内戦の時代で、難民が不法でアメリカやカナダには沢山入ってきていて、入ってきていた人たちは罪もない農民で、捕まるとどうしてあげることもできないんですよ。それで難民を助けるボランティアもやりましたね。その中心にいたのはアイルランドのシスターでした。やることとしては、刑務所に行って話を聞き取って書類を作ってあげて、弁護士さんに繋いだり、あと寄付を集めて保釈金を払って、アメリカで暮らせるようにするということをやってましたね。当時、キューバの人もたくさん入ってきてましたが、彼らは助けることができませんでした。
中村
当時、キューバと国交がなかったですね。よくいろいろやりましたね。
白石
若かったですね(笑)。
出産後は子育てで忙しかったですね。長男は生後3ヶ月のときには夫の学会でイタリアに連れて行ったりもしましたよ。
中村
えっ。
白石
逆に3ヶ月で運びやすかったですよ。でも行ったイタリアで夫も子供も風邪ひいて大変でした(笑)。その後は日本に戻ってきて、横浜で次男、長女は埼玉で産まれました。そこからは子育てと専業主婦をやらせてもらいました。夫には感謝してますね。子どもの愛らしい時期はほんの一瞬なので…。
訪問ホスピスの話ですが、アメリカは保険制度が破綻しているので、ボランティアの訪問ホスピスでは末期の病気の人でも、貧しい黒人の方の家によく行きました。ある黒人のご家庭に行っていたときですけど、立派な絵が居間にかかっていたんです。その絵を褒めたら、「夫が病気になってから、あの絵すら楽しめてません」と辛いお気持ちを話して下さった事は今でもありありと覚えています。黒人の方のお葬式も経験しました。
中村
あの賑やかなジャズとか、マーチとか?
白石
派手な帽子をかぶっておしゃれをして盛大にやるんです。葬儀のあとに出てくるお料理もとても美味しかった事を覚えています。他にも忘れられない方がいて、女の人で一人暮らしの方でしたが、食欲がなく、私が庭のりんごを刻んで、煮てさしあげたら、とても喜んでくださった事も良く覚えています。
中村
先ほどいただいた雑誌の記事にもありますが、その後ですかね、お母様の介護で大変だったのは?
白石
はい、その後実の母の介護が始まりました。母は50歳のときに心筋梗塞、60歳のときに脳梗塞で倒れました。当時は埼玉から横浜まで子供達を連れて毎週通いました。それからやはりとても大変だったので、両親とも埼玉に呼び寄せました。さらには70歳の時には大きな脳出血で指扇病院に運ばれまして、そのときももうダメかもと言われましたけど、歩けるまでに復活したんですよ。私、43歳でした。当時は3人の子育てをしながら介護もやってました。
その頃はサンマルクカフェのキッチンで9年ほどコックもやってました。最初の2年で調理師免許もとりました。なんちゃって調理師です。その頃から博滇会には大変お世話になりました。ケアマネさん、ヘルパーさん、福祉用具では岩崎さん、デイケアの職員の方々。訪問診療では湯澤先生をはじめ先生方、そして訪看の皆様には大変な時期に本当にいろいろ助けていただきましたね。涙なしには話せませんね…。主人や子供達、弟達も本当に良く助けてくれ感謝しています。母の介護は最初は父も手伝ってくれていたんですけど、父に前立腺がんが見つかり、そこから父の介護も始まったんですよ。父は最後は老衰で亡くなりました。父は経過中、ボケたりはしなかったんですが、パーキンソン症状はあり、不自由な体ではありましたが本当に優しい父でしたね。両親の介護にはなりましたけど、両親の仲が本当によかったんですよね。だからなるべく両親一緒にいさせてあげたいと思ってました。
父のガンが見つかった時、どうしていいかわからなくて、いろいろ調べて、笑いが免疫力を高める事を知り、「笑いヨガ」がいいと聞いて資格を取りに東京まで通いました。誰でもすぐに取れる資格ですけどね。そして初めて「笑いヨガ」を両親の前でやったら、大笑いしてくれたんですね。「笑いヨガ」といってもいろいろテクニックがあるんです。人をどう見るか、立つ位置、笑いが起きやすい環境。それをその場で瞬時に判断して、組み合わせてやるんです。父母が思いの外、笑ってくれたので、これはいける!と思いました。父母がみるとにも通所していたので、みるとでも「笑いヨガ」の時間を作ってもらい、やらせて頂いた事はとても有難いことでした。
父がだんだん弱ってきた頃、嚥下が悪くなったので、私もいろんなトロミの研究を始めたんです。そうしたらネットでつるんと飲み込めるトロミ剤を見つけて、そこから薬もつるんと飲み込めるようになりました。ニュートリーのソフティアです。
中村
いろいろなんでも自分でやるんですね。
白石
すべてのことには意味があり、それは私にとっては父母の介護で、親というのは死ぬまでいろいろ教えてくれる。弱っていく姿で教えてくれるんですね。私がいろいろ研究して、博滇会で他の飲み込みの悪い方にも使って下さったので、何かきっと意味あったんだろうなと。
それでもだんだん弱っていく父を見ていることは本当に辛かったですね。精神的にもボロボロでした。でも笑いヨガを覚えたので、自分も口角だけでも上げるように努力をして何とか乗り越えようとしていました。今では公民館の介護予防事業や自治会、オレンジカフェなどで講師としてあちこちで呼んでいただけるようになりました。最近は障害者施設からもお話があり、やらせていただいています。何でもチャレンジですよね。
中村
今も活動的ですね。
白石
ありがとうございます。私、父母が弱っていく中で、『不可逆性』という言葉の意味を初めて知りました。本当に少しずつ弱っていくんです。悲しかったですね。なので、とにかく今日1日をなんとかやり過ごす、って感じでしたけど、とにかく落ち込みましたね。洗濯物も畳めないくらいでした。父もだんだん衰弱して、そのうち二人とも車椅子になったんです。それでホンダのモビリオを買って、車椅子を2台乗せられる車にしたんです。
先生、道で車椅子2台、どうやって一人で運ぶかご存知ですか? 一台は押して、一台は引くんです。そうすれば一人でも運べるんですよね。それで車椅子を2台車に乗せて、良く外食に連れて行ったりもしましたね。
中村
すごいですね。
白石
両親ともクリスチャンなので、毎週教会にも行きました。それから父が亡くなる時がやってくるんですけど、往診の先生も「もうじきでしょう」と。訪看さんも毎日来て下さってとても心強かったですね。介護をやっていて、毎日こんなことしなきゃよかったとか、後悔もたくさんありました。当時、母は認知症でデイケア、父はターミナル。父に対してイライラして怒ったり、お互いに怒鳴ったりした事もありました。介護はきれい事じゃないんですよね。ある日徐々に意識レベルが下がり昏睡状態になった父の前で号泣してしまった事がありました。出来なかった事ばかりが思い出されて「ごめんなさい」と泣きながら謝ったんです。そしたら父が喋れないんですけど、目をつぶったままにこっと笑ってくれたんです。あれは忘れられないですね。
父が亡くなった後、「父にあれもこれもやってあげられなかった」と認知症の母に言ったら、「あなたは心を込めてやったはず」と言ってくれたんです。自分の中で60%はできた、でも40%はできなかったと思っていた。手抜きもしたし、出来ないこともあった。でも疲れ果てて、ボロボロの私なりの100%ができていたのかなと思えて、ちょっと楽になりましたね。母は認知症とは思えない言葉をいつも優しくかけてくれました。
中村
認知症でもちゃんと機能は残ってる。
白石
そうなんですよね。心があるんです。母はいろいろ面白いエピソードがあるんですよ。入院していたときに、食事前にテーブルでお隣に座っているおばあちゃんが自分のコップにこれしかお茶が入ってない!って怒りだしたんです。そしたら母が自分のコップにはちょっと多めにお茶が入っていたので「どうぞ」って自分のコップと交換してあげてたんです。見ていた私は何て優しいんだろう、と思っていたのですが、しばらくしたら、その方に差し上げたお茶を飲んでいたので笑ってしまいました。
中村
(笑)
白石
あとですね、家にいる時、母は大福が好きだったので、買ってテーブルの上においておいたんですよ。それで私が台所に行って、用をして戻ってきたら、大福が無いんですよ。よく見ると母の口元に白い粉がついてるんですね。私が「大福、どこ?」って言ったら、「私は食べてないわよ」って。食べた事はすっかり忘れているので母にとってはそれが真実なんですね。笑ってしまいました。
中村
わかる嘘をつくんですね(笑)。
白石
嘘というより本人にとってはそれが真実なのでその後ずっと母の『認知症ワールド』にはずいぶんと笑わされました。別の話になりますけど、夫の単身赴任先を訪ねた時に、母をショートステイに預けてたんですよね。そのとき冬で足元に湯たんぽを入れてくれてたみたいなんです。そしたら足が低温やけどになっていて……。しかもちゃんとした処置もされてなくて。それを当時お世話になった訪看さん達が心を込めて手当をして下さいました。いろいろと励まして下さり、本当に涙が出るほどありがたかったです。お風呂にも毎日濡れないカバーをして入れました。その後少しずつ母の傷も治っていきましたが、火傷のあとも残ってしまいましたし、以前より歩けなくもなりました。しばらくして、そのショートステイ先の看護師さんが家にきて、母に泣いて謝ったんです。そしたら母はどうしたと思います?「足はそのうち治りますから…顔をお上げください」とその方をすぐに許したんです。認知症になっても母は母らしく、優しく思いやりのある人でした。
中村
教えられますね。
白石
母は2020年に亡くなったんですけど、父は2015年に亡くなりました。なので父が亡くなってからがちょっと大変でしたね。父がいないと心配するので「出張に行ってるのよ」と嘘をついたり、布団を丸めて父がいるように見せかけたり。それでもだんだん嘘も通じなくなって。それで本当のことを言ったら、「どうして私に知らせてくれなかったの?」と怒りましたね。そんな筈はないのですが忘れてしまっているので、またしばらくすると、「お父様はどこ?」と。それでまた同じ返事をすると、また同じようにショックを受けてましたね。その繰り返しで、本当に可哀想でした。その都度ショックを受けるくらい父の事を想っていたのですね。
ある時、おじやを作ってあげたら、「裕里子、食べてごらん。おいしいよ」って言ってくれたり。そんなこともありましたね。母は毎日、「古漬けを作ったから、持って行ってね」というのが口癖でした。長年ぬかみそを作っていたので、私が大好きな古漬けを持たせてくれようとして言ってくれていたのです。もう古漬けはないんですけど、母としての思いですね。
母とは寝る前によく一緒にお祈りもしましたね。奇しくも亡くなる前の晩に、『お父様が亡くなって5年経ったね。私も至らなかったけど、許してね。お母様も本当に良く頑張ったね」と語りかけました。それが最後でしたね。
中村
看取りはご自宅でですか?
白石
翌朝いつものように訪ねるとすでに意識がなくなっていて、湯澤医院の小森先生が来て下さり、脳内出血の疑いですぐ救急搬送になりました。当時コロナ禍で、コロナの検査にも時間がかかってかなり待たされました。コロナではありませんでしたが、もう時間の問題と言われまたすぐ家に戻りました。私としては母が苦しんでいたかどうかだけが気がかりでした。亡くなったのはその日の夕方でしたね。なので苦しみは短かかったかなと。
中村
お疲れ様でしたね。
白石
ありがとうございます。母が亡くなって半年ほどでヘルパーを始めました。2021年の3月からです。それまでお世話になっていたヘルパーさんたちと一緒に仕事をするようになりました。
中村
どういったいきさつ、お気持ちで?
白石
母は常々、介護する私に、私を練習台にしてより多くの方々のお役に立ってね、と言っていました。自分がおむつ交換なんてできるんだろうか、と当時は思っていましたが、それも父も母も沢山経験させてくれました。また長年の寄り添いたいという気持ちからでしょうか。それは聖母病院に勤めていたときから、ずっと変わらない思いですね。
中村
でもこんなにまじめに介護してから、ヘルパーさんになった人もあまりいないのでは?
白石
そうでしょうか?今もヘルパーとして、たった1時間でも寄り添える範囲でできることをやらせていただければという思いでおります。共感疲労してしまわないようにとも思っています。
中村
介護は感情労働ですものね。
白石
今、接遇のチームでふざけたことも言ってますけど、笑うと楽しくなりますし、鬱の人も笑うと気持ちも良くなりますし、よく眠れます。笑いは脳を変え、無理なく楽観的になれますし、今日1日頑張ろうとなれるんですよね。
中村
それが「笑いヨガ」ですね。
白石
笑いの効果ですが、体全体に良い効果があります。お医者様の前で言うのもおかしい話ですが。本当に変えられるんですよ。辛い思いを抱えている人を支えたいというのは根っこは一緒です。
笑いの効能と話を聴くこと。これはすごく奥が深い。ずっと勉強しています。聴く力。問題は変わらないし、ストレスの元は変わらないけど、聴いてもらえるだけでいい。アドバイスはしない。ただ聴いてさしあげることをしています。怒り、悲しみ、話を聴くのは辛いですけど、聴いてもらえると人は立ち直れる。本当に想像もつかないような苦しい話を聴くことがあるんですね。簡単に「大変でしたね」という言葉を乱用はしませんが……。でも話を聴くだけで、「今日は聴いてもらってありがとう。気持ちが楽になりました」と言われると本当に良かったと思います。
なので、私、飲み会で笑ってるだけじゃないんですよ!今日も接遇のメンバーに、中村先生にインタビューされるって言ったら、「白石さん、話止まらないよ」って笑われました。人は笑っている瞬間は幸せだなって思います。
中村
私も精神科医として、笑いの効果については理解しているつもりです。精神科は慢性疾患も多く、長らく障害と向き合うことになることも多く、そんな臨床場面ではユーモア、笑いがないと持たないです。
話はちょっとそれますが、私がもう30年前になりますが、ちょうど研修医のときに阪神淡路大震災があって、まだ精神科医としては何もできないくらいのときだったんですが、精神科医としてボランティアに行ったんですよね。精神科のクリニックも壊滅的な状況で、精神科の薬が必要な方たちに向けて即席の精神科の外来をやったんですよ。そのときですね、いらした患者さんに「いかがですか?」と尋ねたら、「どないもこないも」って笑ってるんですよ。そりゃそうですよね。周りを見ればまっすぐ建ってる建物もないくらいに大変な状況だったんですから。でも、その患者の「どないもこないも」にこちらが救われたような気がしましたね。ああいう会話のやりとりは関西ならではですね。当時、現場では関西弁の当たりの柔らかさに驚きました。東京の標準語ではない感覚だと思いました。
白石
本当にそうですね。こちらが救われる事も多々ありますよね。介護は大変ですが、すべてに意味があり、与えられた中で楽しくやっていければと思っています。自分の人生も大切にできればと。今はヘルパーとして出来ることをやっています。チームとして、その人のためになることを。やりがいはありますよ。介護の仕事って素晴らしいなと。介護の仕事は本当に奥が深いです。自分の人生も残り少ないなと思っていますので、一日一日を大切にしたいですね。今も忙しすぎるくらいですが、まだまだやりたいことがたくさんあって……。
中村
本当にエネルギーに溢れてますね。
白石
そんなことないですよ。
中村
いやいや。
そろそろお時間ですので、今日はありがとうございました。お疲れ様でした。
白石
こちらこそいろいろ聴いていただき、ありがとうございました!


