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インタビューNo.9 江美社長インタビュー

中村

   こんにちは。早速ですが、あらたまった感じになりますがインタビューをさせていただきます(笑)。小さい頃はとても大家族で暮らしていたと聞きましたが。

江美

   ええ。父が4人兄弟でそのうち3人の家族が一緒に住んでいたような感じだったので、25、6人いたんじゃないでしょうか。「今日はいるのは23人だから、お米は8合ね」っていう感じで夕飯の準備をしたりしてましたね。
   私の実家は西川家というんですけれど、もともとは米問屋でしたから、家の庭に米蔵やら味噌蔵がいくつもありましたね。
   父も母も医者でしたが、父は研究が仕事だったので、家にあまりいませんでしたし、母は弟が開業していた医院に叔父とともに働いていたので、かなり大変でした。往診に今法人の保養所梅風荘がある越生の方まで行ってましたね。当時は往診する医者もあまりいませんでしたからね。
   なので私は小さい頃は祖父母に育てられました。家の車庫の隣には竹藪があって、よく竹を登ってましたね。竹を高いところまで登って、自分の重みで竹を曲げて、それで車庫の屋根に飛び移ったり。とてもお転婆でした。ある日、熱があるのに、そんな感じで竹に登って車庫の屋根に飛び移ってたら、母にとっ捕まえられて、屋根の上でお尻を出されて注射されたのを覚えています。

中村

   それはかなりですね(笑)

江美

   父は東大の基礎医学(公衆衛生学)にいたので、小さい頃はよく職場に行っていました。最近、妹と梅干しを作ったりしながら話してて、お姉ちゃんはお父さんの職場にいつも一緒に行ってて羨ましかったとか言われたんです。でも本当はそれは違ってて、妹は何の病気だったか、あまり長生きもしないかもと言われていて、母やお手伝いさんが面倒をみていて、私は家にいられなかったから父が職場に連れて行っていたというだけなんです。
   父の職場に連れて行ってもらっていたときに、東大の教室に階段を上がってから入って行くんですけど、その階段の下に自分の家で飼っていた犬がいて、「クロちゃん!」と声をかけたことを覚えています。父は基礎医学で家の犬を実験に使っていたんですよね。当時は実験用に犬を買う予算もなかったので、家の犬を……。今考えると怖いですよね。クロちゃんもその後戻ってくることもなかったですし。当時は衛生学教室では公害の問題とかもまだ世の中で未解決の時代で、父も大変だったと思います。
   さっき話した妹はその後いい薬が発明され、病気が治りました。

江美

   小学校3年のときだったかな。台所を走り回っていたときに、お手伝いさんが熱い味噌汁の鍋を持っているのにぶつかって、味噌汁が右の肩からかかって、大やけどしました。当時はかなりケロイドで盛り上がっていましたね。ステロイドができてからは腫れはずいぶん引きましたが。なので、私はそれから台所に出入り禁止になりました(笑)。小学校4年生のとき、今の愛和病院にいるいとこが家庭教師をしてもらうというので、いとこ(姉、弟)と私の3人で一緒に習ったり、中学受験のために高田馬場の塾まで3人で通ったりしてましたね。あんまり勉強はしなかったですけど(笑)。塾で覚えているのが、私、塾の在籍番号が226番だったんですよね。それで教室で先生が順番に番号を聞いていったときに、私が「2-2-6です」って答えたら、ものすごく叱られました。「にひゃくにじゅうろくだろ!」って。二二六事件の後というほどでもないんだけれど、そういうのもまだうるさい時代でしたね。
   当時家庭教師をしていた人が日本女子大の人ということもあって、そこを受けようってなって。私は日本女子大の附属の中学校に運良く受かったんです。それで中学は目白の日本女子大まで通いましたね。
中学では父のすすめで生物部に入りました。カエルの飼育とか、解剖、ひよこも育てたかな。生物部の先生が大好きで。東大を出た女の先生でしたね。当時ひよこの餌を買いに、目白通りの椿山荘の方へ向かうカーブの道あるでしょ。あそこのちょうど曲がるところの八百屋にまで葉っぱを買いに行ったのを覚えてます。
   高校は生田にあって、1年生のときは寮に入りました。片道3時間くらいかかっていて、当時片道2時間半以上の人は寮に入るようにという決まりだったんです。
   寮は当時は下の名前を様付けで呼ぶのが慣例でした。江美様って。そういう時代でしたね。高校2年生からは川越の家から生田まで通いましたね。

中村

   3時間もかけて、大変でしたね。

江美

   いや、そうでもないのよ。川越市駅が始発でしょ。だから寝っ転がれるくらい空いてて。それで池袋で乗り換えて新宿行って、そこから小田急線。妹も同じで3年間通ってましたね。私はそこそこの成績だったけど、妹は学年で2番で勉強もできましたよ。

中村

   大学はそのまま日本女子大ですよね。何学部だったんですか?

江美

   家政学部食物学科。ちょうど私が大学生になるときに、日本女子大に管理栄養士のコースが新設されて、そこに勧められて入りましたね。大学卒業後は1年だけ研究室に残りました。そのとき卒論を一緒にやってくれた先生がハーバードに留学するというので、人が足らないから来てくれないと言われて。1年半年後には結婚することも決まっていたので、1d年でいいんですか?って言ったら、いいいいと言われて。適当な時代でしたからね。

中村

   俊さんとはどう知り合ったんでしたっけ?

江美

   もともとは祖母同士が姉妹でした。長女が湯澤家に嫁ぎ、次女が西川家に嫁ぎましたから。湯澤家はもともと村長をしていて。西遊馬のあたりは医者がいなくて、医者にかかろうとすると大宮まで行かないといけなかった。なので、湯澤家に誰か医者になってくれないかと言われ、義父が東京医専に入って医者になりましたね。当時は湯澤医院は支所の奥にありました。今は俊の兄が住んでいるところです。私の父は湯澤の父と仲がよくて、同じ道を選んだのです。

中村

   俊さんとはそれでどうやって一緒になることに?

江美

   話すと長いのですが、俊はもともと城北高校に通っていた遊び人(?)で(笑)。当時川越線が単線で、1時間に2本しか運行していなかったんです。試験中とか早帰りのときがあるじゃないですか。そういうときに、私の兄と学年が一つ違いで同じ学校で仲が良かったので、川越で電車を降りて乗り換えまでの時間にうちに来てたんです。遊んだりおやつ食べたり。俊はあんな感じで私の母にも気に入られていて。

中村

   なるほど。

江美

   私は当時24歳で結婚しました。俊は医学部の4年生でしたね。私の父から、俊は医学部に入らないと私と結婚させないと言われていたので、薬学部を卒業してから医学部に入学しましたね。
   結婚してからは東邦医大のそば、大森のアパートに二人で暮らしてました。俊が5年生のときに美保が生まれました。湯澤の父が10万円、西川家が4万円出してくれていて、5万円が家賃、2万円が電気ガス水道、7万円が生活費だったかな。それでも楽しかったですよ。そのあとは、友人のすすめで自由が丘の近くの奥沢にいいマンションがあるからって引っ越したけど、やや不便だったわね。当時覚えているのが、食器の洗い桶が280円で売ってて、あ、これ高いけどどうしようか、でも今日夕飯一品少なくすれば買えるかなって思って買った。生まれて初めて買った洗い桶で、実は今も使ってるんです。

中村

   !

江美

   美保は東邦医大で生みましたが、美菜は実家に里帰りして生みましたね。愛和病院ね、当時は今と違って所沢の近くにあったんだけど。夫が研修医で岡本台病院(栃木)に単身赴任していたので。夫は美菜が生まれて、数日経ってこっちに来て美菜を見て、またすぐに岡本台に戻ってました。その後の美季と美和も愛和で生みました。

中村

   子供は何人欲しいとかあったんですか?

江美

   何人欲しいとか考えたことはなかったわね。できたから生んだ(笑)。子供には助けられたわね。美保はしっかりしてて。ちょうど奥沢にいたときに美保が3歳で、ウルトラマンが大好きで(笑)。美保が行きたいからと、近くのスーパーに一緒にウルトラマンショーを観に行ったのよ。そしたらテレビでは、ウルトラマンって家よりもずっと大きいでしょ。それがショーで出てきたのが、人と同じ大きさのウルトラマンで……(笑)。それから美保は一切ウルトラマンって言わなくなったの。

中村

   トラウマでしょうね(笑)。

江美

   その後は一時期浦和にも住んでいました。俊が卒業して半年くらいのときに、俊の父が倒れて、2週間以内に湯澤医院を継ぐかどうかを決めろって言われて。俊は往診とかしたくないから精神科医になったのに!と言ったけど、叔父(当時の三橋の湯澤外科)に「だったら湯澤医院にかかっている人たちがいるけどどうするの?」と言われて、渋々慈恵医大の精神科研修医と湯澤医院(内科小児科)を続けることになりました。
   今の湯澤医院は建て直すとき、とても木造で古かったわね。大型のバスやトラックが16号を通ると揺れてちょっと不安になったりして。それで俊が当時賞をとった建築士さんに頼んで作ってもらったわ。当時は1階が歯科、2階が精神科と内科、耳鼻科。10年して歯科はして今の形態になりました。当時、俊のコンセプトは「30年後にも見劣りしない様な近代的な建物」と言っていました。
   俊は今の介護保険が始まるのよりずっと前から往診もしてて、医師会でも役職についてて。これからは介護もやっていった方がいいという風になって。夫は北欧の介護の本とかを読み漁って、これからは医療ではなく介護だって。それで少しずつ「みると」とかから始めた。事業を拡大して大変だったわね。

中村

   当時は食事の品数を減らさないとというくらい家計も大変だったと聞いてますが。

江美

   そうだったかしらね。まあ家のことは全部自分でやってきましたね。夫はお産に立ち会うこともなかったし。当時青森とかに当直に行ったり。当直料は重要な収入源でしたから。そんなこともあって一人で産んで、一人で育てた感じね。でも何ともなかったわよ、小さい時から一人で何でもやってきたから。

中村

   マミヤ物産の社長としての仕事はいかがでしたか?

江美

   マミヤ物産は建物の管理とかやっていたけど、そんなには大変ではなかったかな。事務の方達がいろいろやってくれてたから。建て替えるまでは診療所の2階に住んでいましたね。美保、美菜、美季の幼稚園とかは川越まで車で送っていたわね。川越は元地元で知り合いも多いので。それで川越の公文には美保たちも通っていましたね。小学校はあまり厳しくない校風で、中学受験がないところと思って探して、ルーテルに4人とも通わせましたね。
   私は医者の中で育ったので、医者の嫌なところもよく知ってたから。こんなこと言うと怒られるわよとよく言われるんだけど、私は子供は医者にならなくてもいいと思っていた。ふつうの家庭に憧れていた。

中村

   お母さんがとても忙しかったんですよね。

江美

   そう。母には朝から晩まであまり会わなかった。だから逆に一緒にいると緊張する人だった。自分はおばあちゃん子でね。
   ふつうの家に憧れてたわ。友達の家に遊びに行ったら、「お好み焼き食べてく?」って言われて。そんなお母さんがいる友達が羨ましかったの。私には母と一緒にいた記憶があまりないのよね。
   唯一あるのが中1のときかな。中1の2学期か何かに成績がちょっと落ちて母が呼び出されたのね。そのとき先生との面談のあと、母と電車で一緒に帰ったのが最初で最後の母と一緒の記憶。とても緊張して。これからは迷惑かけないように勉強がんばろうと思ったのを覚えてる。
   なので、母とはあまり縁がなかった。だからか、自分はいつも家庭的であろうという意識は常にありますね。家でもこの法人でも。
   梅干し作り、ゆず。祖母を思い出すのでついついやってしまいますね。

中村

   そこに繋がるんですね。まだまだ話は尽きないですが、この辺で。
   今日は長らくインタビューお疲れ様でした。

江美

   失礼しました。

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