ついに今、時節は「大寒」真っ只中。
七十二侯では「欵冬華(ふきのはなさく)、「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」、「雞始乳(にわとりはじめてとやにつく)」が含まれる。雪の下には蕗が咲き始め、鶏が卵を産み始める、一方で、なかなか凍らない沢の水さえも凍り詰める−。大寒というと、ただ寒さの極まりと思いきや、小寒に比べ、春の気も勢いづき、冬と春が両極に力を引っ張りあっているような感じがする。
「寒仕込み」という言葉がある。一年で最も寒さが際立つこの時期(特に大寒の時期)に、味噌などの発酵食品を仕込むと、秋に収穫したての新鮮な原料を使用できたり、寒さの中で雑菌の繁殖が防げたり、麹菌や乳酸菌の発酵が低温の環境下でゆっくりと進み、うまみが一層ひきだされたりし、結果まろやかな仕上がりになるというものだ。発酵が最も促されやすい30度に温度を一定化すると、味噌は3ヶ月ほどで完成するが、同時に「寒仕込み」の味噌のようにまろやかで豊かな熟成した風味を得るのは難しい。歴史の中で無数に繰り返された味噌づくりの試行錯誤の末が、「寒仕込み」に込められている。
そういえば今年の読み初めは、料理研究家 土井善晴先生の『一汁一菜でよいという提案』という本だった。その本には、ここで何を書いても嘘くさくなってしまうほど奥深く本質的なことが惜しげもなく書かれていたが、その中で土井先生は、「暮らしの寸法」という言葉を用いていて、それが私にはぐっときた。
土井先生は本の中で、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作るために、ご飯、味噌汁、漬物を原点とした、一汁一菜の食事の型を薦めていた。
自分の日々の生活の中で、季節や体調、冷蔵庫の残り物など、要は自分(や家族)のその日その日の状態から、ただ淡々と次の食事が繰り出される。そこには、「どれだけおいしいといってもらえるか」とか、「見栄えが良い」とか、そういった都合は一切介在せず、とにかく自分達の気分や都合だけが関わり、手間暇はかけず下ごしらえのみの素材の味そのままにつくる。事実、本の中にあった土井先生の食事の写真には、輪切りの胡瓜、ブロッコリー、ピーマン、ベーコンやパンなどがお味噌汁の具として堂々と登場していた。時にはまぁまぁな日や、微妙な味の日もあるだろうが、それが生活というもので、そんな食事により、自分の生活の寸法を知れるのだと思った。こういった生活様式を作れるというところがきっと和食文化の力なのだろう。
そしてさらにその背景には、日本に古来より存在する「ハレ」と「ケ」という概念がある。ハレは特別な日、祭り事、祝い、神様に感謝する日。ハレの日の食事は、手間暇、人智をかけ工夫を凝らし、皿数も大きく、見栄えや味を突き詰めた豪華なものだ。一方、ケは普段の日を指す。一汁一菜は、ハレとは真逆、つまり素朴で飾らず、ありのままであり、食事そのものが自分の普段の日々、ケの日を形成しているのだ。
ハレの日に思いを馳せるのはきっと誰にとっても楽しい作業ではないかと思うが、一方ケの日に思いを馳せてくださいと言われたら、とても多くの人が困惑するだろう。無意識に人目を気にし、普段の生活までもつい小綺麗に意識高くまとめたり、または逆に卑下の対象にしたいような衝動に駆られたりもしてくる。しかし、土井先生はそんな気持ちは不要だと再三書いており、ケの生活という難儀な問いに鮮やかなヒントをくれた。そこにはただ自分達があり、今の季節や、冷蔵庫の残り物があり、味噌があり、漬物があり、そしてご飯がある。
食のみでなく、衣・住についても、それぞれの寸法があるはずだ。私のケの衣食住…そういう目で今の私の生活を見ていくと、ハレにもケにも属さない、謎所属のモノ達が頭にたくさん浮かんできた。断捨離もできずミニマリストにもなれない私であるが、自分の生活の寸法、日常使いすることで私のハレとケの生活を形成してくれるモノ達、という観点であれば、希望が見えてきた。
今年の寒に味噌は仕込めなかったが、土井先生の提案を思いとして自分自身に仕込んでみた。果たしてどうなることやら、楽しみに一年を過ごそうと思う。
博滇会理事 湯澤美菜