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<さまざまな自分の発見>

正月明けの真冬。とりあえず年は越したものの、まだまだ外は寒く、お日様もこれでもかと早く落ちる。夜は静かで止まっているような、冬らしい感じだ。

外に出ても風はキンキンに冷えているし、家に閉じこもってホッと一息ついてくると、意識がのさばってくる。冬とはそういう時期なのだろうか。私の気持ちの矛先は自ずと自分の中へ、思考の渦を作り、勝手に深く潜っていく。

今、時節は「小寒」

七十二侯では「芹乃栄(せりすなわちさかう)」、「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」、「雉始雊(きじはじめてなく)」が含まれる。どれも、冬の厳しさと春の予感を含み、静と動が衝突するような不思議な蠢きを感じる。

私は生きてきて40年以上経つが、結局、人間もその本質がその人の無意識に発する所作、言動に現れる、という事実にどうにも突き当たる。例えば、赤ん坊を見ていると、座って煎餅を片手に持ち頬張るという一連の動作一つ一つに全身全霊打ち込んでいる。自らの体にも神経にも意識にも慣れず、翻弄され悪戦苦闘している様子がなんとも新鮮!一方私は、自慢じゃないが、記事を書くつもりがついうっかり座ったついで目に入った安倍川餅をつまみ食いすることもできる。

この私の無意識の行為の中にはおそらく、「明日できることは明日やろう」という怠け者根性、そして食いしん坊、といったような私のプロフィールが浮かび上がるだろう。

こんなことを考えている時、私には大抵必ず思い出す小さい頃の強烈な記憶がある。

7歳くらいだったかと思うが、冬に家族で新潟県へスキー旅行に行くのに車に乗っていた。当時の自分は植物やら自然やらになぜかいたくハマっていて、いつものようにそのことに関して意識をのさばらせていたのであろう。急に、今使用しているこの道路が、旅の目的地である新潟県まで安全に車を運転するためにアスファルトで固められて整備されているという事実や、そういった人間の欲望や経済活動といったもののために、それまで植物が自由に土の上に落ちて育ったり動物が好きに往来したりする、という自然の循環を断ち切ったという果てしない状況で、今まさに自分は人間の欲の極みであるレジャー、そしてスキーという遊びに向かわんとしている。どうしたら良いのだー!と、一人車中で絶望に似たショックを受けた。そんな記憶である。それは家族に言ったのか言わなかったのかも記憶はないが、おそらく言ったとしても、「うん、そうだね。そういうものだよ」というような若干温度差のある、当たり障りのない反応であったのだろうと思う。

おそらくこの記憶は、周りの感覚と自分の感覚が同じではないということの原体験ではないかと思うし、それは私が自分自身を認知する上では重要な、敏感さや、ややこしさ、こじらせ具合、といった特性の象徴となる大切な愛しい思い出である。そして今は、あの時の敏感な自分も、意識して周囲に大々的にアピールする見せつけたい自分と同じく、忘れずに連れ立って成長させてあげたいと思っている。敏感でこじれている感じの自分が格好悪いと思う時期は結構長かったが、今は隠す術がないことも知り尽くし、

「どうですかね。仕方ないけどどうもこれが自分なんですよね。」

と思っている。

果たして、その後のスキー旅行はどうなったかといえば、怠け者根性も備わっている自分なので、おそらくそんな自分に面倒臭さを感じたりして、一晩も経てば何もなかったようにスキー旅行を楽しんだのであろう。敏感なくせに流されやすいのもまた自分なのだ。

人が無意識に行うこと、発する言葉、紡ぐストーリーには、その人が何度も繰り返しその回路を使用し、最終的に無意識の海にまで落とし込まれたという背景がある。また、さらにその背景には、目を背けたかったり隠しておきたかったりする幼き日の思い出が心の端っこにしょんぼりといじけているかもしれない。そう思うと、やるせないことを見聞きしても、「まぁまぁ、あの人も無意識にこんなことを言っちゃうくらい不安な思いを巡らせてきたのかな。」と、少しだけ気持ちを落ち着かせることができる。

果たして自分が無意識に繰り出している自分の所作や思考がどれほどか、顕在意識で取りこぼしている自分がどれほど恥ずかしいものか。しかし今年も引き続き、そんな自分が目を背けたい自分も発見し、一層仲良くなっていきたい、と思った。

博滇会理事 湯澤美菜

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