啓蟄の候が満ちてもう指一本で春分に届くと、春真っ盛りとなる。
七十二侯では「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)、「桃始笑(ももはじめてさく)」、「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」と、土地がにぎやかになっていく様子が感じられる。周りを見回しても、春が気配を振りまいていただけかと思っていたら、気がつくともうどかっとそこに居座っていて、動植物は元気に季節と交流していた。
社会に20年も漂っていると、仕事を通して自分の癖がさすがによく見えてくる。私自身は、「基本慎重派だけれどたまに大胆」、「意外に頑固」などは、時場所人を変えても一緒に働く人から普遍的に言われることだ。あくまで相手が伝えて良いだろうと判断した範疇での言葉ではあるが、仕事ぶりを覚えてもらえて純粋にありがたいと思う。人間らしいということであれば、なお嬉しい。
その時々の自分の在り方によって、仕事をする上でのポリシー、譲れないこと、大切なこと、というものはある。意識していることもあれば、何か納得できない出来事が起こって初めて、反作用的に自分の核のようなものに気付かされることもある。言葉にできるものもあれば、段取りからの交渉・調整からの成果、そして着地、という経過を全部ひっくるめて充実感があり、その本質が今はまだ言語化できないものもある。
仕事に関して以前はもっと自分のポリシーに真っ直ぐで自己完結していた気もするが、ここ最近は周りの人の力を借りて初めて成せる類の仕事が増えたからか、仕事をする上で今までなかった新しい感覚の芽生えを感じていた。それは、「あきらめない」ということだ。
人に仕事をお願いする時というのは、業務の量や質の都合で複数人が関わらないと完成しない業務がある時だ。分業とは、バトンリレーのように、皆が決められたパートを行った末にアンカーがゴールテープを切って無事業務完了となる。必然的に、業務の質も量も重たいことが多く、メロスのように一人孤独に使命感を抱えずっと全速力で最後に燃え尽きてしまわないためにこのような形になっているようにも思えるし、さらに補足をすると、ついに「もう無理かも」と感じた時に、別の機会にバトンを持ってくれていた人が横で応援してくれたり、最悪は、一旦燃料切れになり戦線離脱した後にも「待っていますよ」と声をかけてくれる仲間がいてくれて、消えたと思っていた業務の灯を別の人が持っていてくれたことに気がついてまた歩き出せたり、と複数の人間が関わる醍醐味を味わう。分業は、そもそも一人では答えが想定できない時の設定が多いため、まず自分一人で計画した通りには全くいかないが、それと引き換えに答えが出るまでの過程でさまざまな人間の、それぞれが培ってきた高度な心の技に触れることになる。
こういった環境に身を置かせてもらい、初めて私は今まで得られなかった「あきらめない」という力を手に入れつつある。
先に述べた、「意外に頑固」などは、あきらめないにも通ずるようにも見えるが、外から見える様子と内心はまた異なるもので、私の場合は周りからどう見えていようと心の中は基本挙動不審で、ちょっとしたことで動揺し、内心はめっぽう気持ちが折れやすいたちであった。だが、全く同じ業務をわけていても、やる気が上がったり、不安がったり、気落ちしたり、ひらめいたりするタイミングは一人一人だいぶ異なるし、自分はもう行き止まりだと思っていても、隣の人は「これは新しい試みをするチャンスだ!」と同じ状況でも受け取るメッセージが全く異なることも多い。皆が最悪だと思う状況でも、一人一人その理由を聞いてみると、「正直、今なぜよりによってそこ心配するの?!」というようにお互い全くずれたピントで「まずい」と思っていたりもする。そういうことを経験すると、そもそもあきらめるという気持ち自体が今の自分の仕事には不要なのかもしれないと思うようになってきた。「あきらめない」という力は、もっと、夜の灯台の灯のように真っ直ぐであったり、もっと熱かったり、他と一線を画すような性質のものかと思っていたが、私の中の「あきらめない」は、どちらかというと「往生際が悪い」に近い「あきらめの悪さ」の様な気持ちで、雑で、グラグラしていて、太いところも途切れそうに細いところもあるような、結構頼りない感じだ。また、もしかしたら周りから見ると完全にあきらめたように見える判断が、実は自分の中ではAという見方を捨てて、Bの視点から見てG(本当はCやDを試したいけれどそれもチャレンジできないのだと気づき、工夫に工夫を重ね、E、Fも避けてのGという選択肢)とHを試してみよう、といったような、「あきらめない」の最終形態としての答えであったりもする。さらに言えば、永遠に試行錯誤をくり返して何年も経った忘れた頃に、気がついたらふっと昔断念したAが達成できる舞台が急に整ったりもする。また、気がついたら「既にA叶っていたじゃん!」と、かつての希望が通り過ぎていたということすらある。そうなると、ますます、自分のあきらめの心というのは、あまり現実には重要度が高くないと感じるようになっていった。
今は色々とスピーディに予測や目処が立ちやすい時代ではあるが、人が人と関わる限り、そこには人の意思が関わることは変わらないだろう。これだけ年を重ねても、新しい「あきらめない」という感覚を持てたのは実に嬉しいことだ。きっと人間一人一人あきらめない気持ちの形というのは違うのではないかと思うが、私個人の場合は、こういう形が性に合っていたようだ。
理事 湯澤美菜